背負いかごを背負って登校

1月31日(火)晴れ

このところ、冊子『夷隅地方にも戦争がありました(仮名)』の資料探しです。

図書館で、いい本が見つかりました。

第二次世界大戦時、中川国民学校で、教鞭を執られていた小林芳枝先生の著書です。

退職を機に発行された著書です。

本の奥付に「昭和533月発行、非売品・限定出版 エポナ出版」と記されています。

昭和20年、アメリカのB29による爆撃が行われ、終戦間近の時代です。

全校あげてのムシロ作りの様子が描かれています。

 

(前略)その頃から、一億総生産のもとに、学校でも、一助を荷っていました。ほし芋作り、大根切り干し、カマス作りなどなど、その中でも、全校挙げての「カマス作り」は、すさまじいものでした。わらで作ったムシロを、たたみの針のようなものに細なわを通し、両はじを縫って、袋にする仕事です。

 全校児童が、しょいかごをしょって登校しました。中には、わらたば、荒なわ、ムシロなど、学年の仕事に従って、持ち寄ってきました。小さな一年生から、大きな高等科の生徒まで、全校挙げてこの作業に取り組みました。校庭にムシロを敷き、一、二年生が、かわいい小さな手で、さらさらさらっと、なわないを始めます。みるみる間に、後に、なわのボールができていきます。四年生以上は、そのなわを使って、カマスを縫い合わせていくのです。何とも、すさまじい光景でした。

 はっきりと覚えていませんが、十万枚ほどの、ムシロ作りを子どもたちの手で縫いあげていったのです。

 「今日は、何枚塗ったよ」と、手に豆を作り、モンペのひざはすり切れ、袖口は穴があきました。見ごとな手さばきで、ぐんぐん縫いあげていくのには、驚くばかりで、私など、到底及ぶところではありませんでした。

 みるみる、廊下も、あいた教室も、倉庫もカマスの山になりました。

 これが、どれくらい、お国のために役立つ仕事であったのか、くわしい事は、はっきりしません。しかし、非常態勢にあって、ともすれば、暗くなりがちな気持ちを全校一丸となって、打ち勝とうした表れだったと思われます。

 三月に、「国民学校初等科を除き、授業を原則として四月から一年間停止」と、文部省からの特例があったので、高等科の生徒は率先して、この作業に取り組んでいたのです。(後略)

     『手を振る子ら』(小林芳枝 エポナ出版 昭和53年出版)

 

ムシロづくり?

このムシロいったい何に使たんでしょうか?

一校で10万枚も?

「授業を原則として1年間停止」ええ、そんなことが?