5月30日(木)雨
夷隅が生んだ名馬「磨墨(するすみ)」
今日も一日中雨でした。
先日(5月19日)の「民話さんぽ」を機関紙「夷隅むかしむかし」に載せるため、朝からパソコンに向いました。
いすみ市布施の「筆かけの槙」は実におもしろいです。
夷隅地方にたくさん語り伝えられている、源頼朝伝説の一つです。
今日も一日中雨でした。
先日(5月19日)の「民話さんぽ」を機関紙「夷隅むかしむかし」に載せるため、朝からパソコンに向いました。
いすみ市布施の「筆かけの槙」は実におもしろいです。
夷隅地方にたくさん語り伝えられている、源頼朝伝説の一つです。

こんな話です。
筆かけの槙
上総の国は御宿町布施に館を構えていた上総介広常(かずさのすけひろつね)が治めていました。その勢力は房総一といわれていました。上総介広常の館を尋ねた頼朝は、平家打倒のために救援を願いました。しかし、広常は隣国(下総の国)千葉常胤(ちばつねたね)と相談してからという返事をして、即答しませんでした。
話が終わると、広常は頼朝を近くの長福寺に案内しました。住職は源氏の頭領と知り、
「頼朝様、この寺にはまだ山号がありません。山号をつけていただけませんでしょうか」
「わしでよければ、ひとつ山号をつけさせていただくか」
住職は紙と筆と硯を持って来ました。この紙と筆と硯を見、
「これはこれは何とすばらしい硯だこと。このような見事な硯は初めて拝見いたしました」
感嘆の声をあげられました。そうして
「この寺は日本一立派な硯を持っているので『硯山』という山号にしよう」
墨をすりながら言われました。
墨をすり終え、筆を手にしたときでした。
ヒヒーン
鋭い馬の悲鳴がしました。(さては、追っ手の者が・・・)と思い、手にした筆をそばの槙の木にかけ、太刀を握りました。見ると真っ黒な裸馬が勢いよくむかってくるではありませんか。しかし馬は、頼朝の所に来ると止まり、大きな目をまばたきさせ、かわいらしく首をふるのです。毛の色つや、脚の筋肉、一目で名馬であることがわかりました。頼朝は一目でこの馬が気に入り、愛馬になさいました。
境内の槙の木は、この時、頼朝が筆をかけたので『筆かけの槙』と呼ばれるようになりました。今でも長福寺の境内に残っています。樹齢は一三五〇年といわれ、根まわり五メートル、高さ一〇メートルもの大木です。また、この馬は墨をすっている時にあらわれたので『磨墨(するすみ)』と命名されました。頼朝はこの名馬を後に重臣、梶原景季(かじわらかげすえ)に贈りました。梶原景季はこの『磨墨(するすみ)』に乗って、あの「宇治川の戦い」で『生月(いけづき)』に乗った佐々木高綱(ささきたかつな)と「戦陣争い」をします。
上総の国は御宿町布施に館を構えていた上総介広常(かずさのすけひろつね)が治めていました。その勢力は房総一といわれていました。上総介広常の館を尋ねた頼朝は、平家打倒のために救援を願いました。しかし、広常は隣国(下総の国)千葉常胤(ちばつねたね)と相談してからという返事をして、即答しませんでした。
話が終わると、広常は頼朝を近くの長福寺に案内しました。住職は源氏の頭領と知り、
「頼朝様、この寺にはまだ山号がありません。山号をつけていただけませんでしょうか」
「わしでよければ、ひとつ山号をつけさせていただくか」
住職は紙と筆と硯を持って来ました。この紙と筆と硯を見、
「これはこれは何とすばらしい硯だこと。このような見事な硯は初めて拝見いたしました」
感嘆の声をあげられました。そうして
「この寺は日本一立派な硯を持っているので『硯山』という山号にしよう」
墨をすりながら言われました。
墨をすり終え、筆を手にしたときでした。

ヒヒーン
鋭い馬の悲鳴がしました。(さては、追っ手の者が・・・)と思い、手にした筆をそばの槙の木にかけ、太刀を握りました。見ると真っ黒な裸馬が勢いよくむかってくるではありませんか。しかし馬は、頼朝の所に来ると止まり、大きな目をまばたきさせ、かわいらしく首をふるのです。毛の色つや、脚の筋肉、一目で名馬であることがわかりました。頼朝は一目でこの馬が気に入り、愛馬になさいました。
境内の槙の木は、この時、頼朝が筆をかけたので『筆かけの槙』と呼ばれるようになりました。今でも長福寺の境内に残っています。樹齢は一三五〇年といわれ、根まわり五メートル、高さ一〇メートルもの大木です。また、この馬は墨をすっている時にあらわれたので『磨墨(するすみ)』と命名されました。頼朝はこの名馬を後に重臣、梶原景季(かじわらかげすえ)に贈りました。梶原景季はこの『磨墨(するすみ)』に乗って、あの「宇治川の戦い」で『生月(いけづき)』に乗った佐々木高綱(ささきたかつな)と「戦陣争い」をします。

宇治川の戦いでの「戦陣争い」、我が郷土「磨墨(するすみ)」は勝ったの負けたの?
夷隅の人間としては大いに気になるところです。
結論を言えば、惜しくも負けました。
そんな「宇治川戦陣争い」を調べてみました。
夷隅の人間としては大いに気になるところです。
結論を言えば、惜しくも負けました。
そんな「宇治川戦陣争い」を調べてみました。
名馬「磨墨(するすみ)」と「宇治川の戦陣争い」
戦いの始まりは、両軍がにらみ合いながら向かい合い、互いに敵陣めがけて矢を射ち合います。その中を、味方の先頭を切って敵陣に駆け込む事を「先陣を切る」といいます。味方の軍勢は、これをきっかけに一斉に敵の陣地へなだれ込みます。先陣を切る事は、戦いの勝敗を決する大きな要素となります。敵陣が放つ矢が飛んでくる中を駆け入るわけですから、まさに命懸けです。そのため戦いに勝てば、先陣を切った者は一番の功労者として恩賞と名誉を手にすることができます。
寿永三年(一一八四)正月、雪解けで増水した宇治川をはさんで、源義経軍と木曽義仲軍が向かい合いました。大将義経は濁流を見て「ここを渡るのは無理のようだ。下流へ迂回するか、水の勢いがおさまるのを待つか」と思案しました。
その時、梶原源太景季、十メートルほど離れて佐々木四郎高綱が馬に乗ってやって来て、われこそが戦陣をつとめると川に向かいました。
「梶原殿、この河は、西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んで見えたり。締め給えや」、佐々木が言いました。梶原は「さもあらん、川中で落馬しては一大事」と、馬を止め、腹帯を解いて締め直しました。佐々木はその間に、どんどん川へ進んでいきます。「謀られたか」と思いながらも梶原は遅れてはならないと佐々木の後に続きます。
今度は梶原言います。
「佐々木殿、功を焦って不覚を取りなさるな。水の底に大縄が有りますぞ。心得たまえや」
「そうだ、足を取られては大変」と、太刀を抜いて、馬の足に掛かる縄を、ブツリ、ブツリと斬りながら渡って行きます。
さすがは生食(いけづき)、日本一の名馬です。濁流の宇治川を突っ切って、とうとう対岸へ上がりました。
一方の梶原の乗った磨墨は、激しい流れに押し流されて、はるか川下に上がりました。
その後、佐々木は、鐙(あぶみ)に踏ん張り立って、
「宇多天皇に9代の後胤(こういん・子孫のこと)、近江の住人・佐々木四郎高綱、宇治川の先陣なり」と、声高らかに、名乗りを挙げました。
戦いの始まりは、両軍がにらみ合いながら向かい合い、互いに敵陣めがけて矢を射ち合います。その中を、味方の先頭を切って敵陣に駆け込む事を「先陣を切る」といいます。味方の軍勢は、これをきっかけに一斉に敵の陣地へなだれ込みます。先陣を切る事は、戦いの勝敗を決する大きな要素となります。敵陣が放つ矢が飛んでくる中を駆け入るわけですから、まさに命懸けです。そのため戦いに勝てば、先陣を切った者は一番の功労者として恩賞と名誉を手にすることができます。
寿永三年(一一八四)正月、雪解けで増水した宇治川をはさんで、源義経軍と木曽義仲軍が向かい合いました。大将義経は濁流を見て「ここを渡るのは無理のようだ。下流へ迂回するか、水の勢いがおさまるのを待つか」と思案しました。
その時、梶原源太景季、十メートルほど離れて佐々木四郎高綱が馬に乗ってやって来て、われこそが戦陣をつとめると川に向かいました。
「梶原殿、この河は、西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んで見えたり。締め給えや」、佐々木が言いました。梶原は「さもあらん、川中で落馬しては一大事」と、馬を止め、腹帯を解いて締め直しました。佐々木はその間に、どんどん川へ進んでいきます。「謀られたか」と思いながらも梶原は遅れてはならないと佐々木の後に続きます。

今度は梶原言います。
「佐々木殿、功を焦って不覚を取りなさるな。水の底に大縄が有りますぞ。心得たまえや」
「そうだ、足を取られては大変」と、太刀を抜いて、馬の足に掛かる縄を、ブツリ、ブツリと斬りながら渡って行きます。
さすがは生食(いけづき)、日本一の名馬です。濁流の宇治川を突っ切って、とうとう対岸へ上がりました。
一方の梶原の乗った磨墨は、激しい流れに押し流されて、はるか川下に上がりました。
その後、佐々木は、鐙(あぶみ)に踏ん張り立って、
「宇多天皇に9代の後胤(こういん・子孫のこと)、近江の住人・佐々木四郎高綱、宇治川の先陣なり」と、声高らかに、名乗りを挙げました。
物語では、佐々木高綱と梶原景季が宇治川の先陣を競った訳ですが、その評価は佐々木を褒め称える人と、小細工をした佐々木を非難する人とに二分されたそうです。
雨の一日、あれこれ本をめくって、こんなことを書いているとアッという間に一日が終わってしまいます。
運動不足です。でも、食欲はあります。体重が気になります。