じいさん晴耕雨読

じいさんの戯言を記録しています。

タグ:俳句、川柳

      7月10日(火)晴れ
            ホトトギスが鳴いています

今朝も晴天
テッペンカケタカ  テッペンカケタカ・・・
あっちでも、こっちでも鳴いている。
姿は見えないが、声の主はホトトギス。
ホトトギス、名前は幾度も目にし耳にしていたが、この声があなたでしたか?
イメージ 1
歌・「夏は来ぬ」とホトトギス
♪卯(う)の花の、匂う垣根に
 時鳥(ホトトギス)、早も来鳴きて
 忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬイメージ 2
あの「夏は来ぬ」(佐藤信綱作詞)にも出てくるホトトギス。
 
正岡子規とホトトギス
正岡子規の「子規」もホトトギスという意味だということ、高等学校の国語で学習した。
結核を病み吐血した自分自身を「鳴いて血を吐くホトトギス」、にたとえたのだという。
ホトトギスがなぜ血を吐く鳥かというと、口の中が赤いから。
ほんとうによく鳴く鳥だ。
朝早くから夕方まで鳴いている。
これほど鳴いたら確かに喉がやられ、血を吐くかもしれない。
同人雑誌も『ホトトギス』。
 
天下人とホトトギス
・鳴かぬなら殺してしまへホトトギス (織田信長)イメージ 3
・鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス(豊臣秀吉)
・鳴かぬなら鳴まで待とうホトトギス(徳川家康)  
 
数年前、現職(管理職時代)だったころ「鳴かぬなら論争」をしたことがあった。
思い出すままに記してみる。
・鳴かぬなら事情を聴こうホトトギス
・鳴かぬならそれもまたよしホトトギス
・鳴かぬなら笑ってくれよホトトギス
・鳴かぬなら左遷させるぞホトトギス
・鳴かぬなら野に放そうぞホトトギス
・鳴かぬなら私が鳴こうかホトトギス
・鳴かぬならじっくり語ろうホトトギス
・鳴かぬなら一緒に鳴こうかホトトギス
・鳴かぬならよきにはからえホトトギス
・鳴かぬなら放してあげるホトトギス
・鳴かぬなら一杯やろうホトトギス
・鳴かぬなら喰ってしまうぞホトトギス
・鳴かぬなら転任しろよホトトギス
・鳴かぬなら退職しろよホトトギス
・鳴かぬなら鳴かぬも風情ホトトギス
・鳴かぬならくすぐっちゃうぞホトトギス
・鳴かぬならほっとけほっとけホトトギス
・鳴かぬなら玉子産んでよホトトギス
・鳴かぬのも個性の一つホトトギス
今思えば、ずいぶん勝手なことを言い合ったものだ。
ホトトギスにとっては「余計な心配するな」と思うことだろう。
・鳴かぬのも個性の一つ管理職
・鳴かぬのは俺の勝手だ管理職
・鳴かないと言われたくないおまえには
・おまえこそ鳴いているのか何ほざく ・・・
と、ホトトギスから言われそうだ。
 
 

        5月24日(水)晴れ
         故郷やどちらを見ても山笑う
故郷・福島県南会津郡檜枝岐村に帰省してきました。目的は3つ。
1,新緑観賞
2,温泉で腰痛治療
3,自分のルーツ調べ
千葉県は若葉の季節だが、故郷、檜枝岐村は新緑の季節です。
イメージ 3

イメージ 1イメージ 2
 
帰省するのは例年、夏、秋。なぜなら、仕事柄5月は多忙でした。(現在定年退職で無職)
5月のゴールデンウイークも仕事が入って休めないのが現実でした。
新緑の季節は秋の紅葉と同様、美しい季節です。
訪ねよう訪ねようと思いながら実現できないでいました。
この季節に訪ねるのは大学生以来だから40年ぶりです。
山や川の形は毎年見ている景色ですが色がまったく違います。
山は萌黄色というのでしょう。

高校時代の俳句の授業を思い出しました。
「故郷やどちらを見ても山笑う」作者はだれだったかよくわかりません。(正岡子規のような気がしますが、あやふやです)。
「季語はどれでしょう?」
「山笑うです」
「では季節はいつでしょう?」
多くの人が「秋じゃない・・・。落ち葉の季節で、赤や茶や黄色の葉がワサワサ音を立てながら落ちる様子です」なんて、説明しました。
しかし私たちの意に反し、季語「山笑う」の季節は「春」でした。 
高校時代に「山笑う」という言葉も初めて知りました。
落葉樹木が新芽を吹き始める季節という解説でした。
でもまだピンと来ませんでした。
今回、鬼怒川から会津高原駅、奥会津そして故郷檜枝岐の新緑を観て「山笑う」を実感しました。
木の細枝が一斉に緑葉を付け出し始める姿。
なるほど「山が笑う」って、この景色?
 
感性のある人間ってのは、美しい、いやおもしろい言葉を考えるものですね。
写真をバチバチ撮りました。  「故郷やどちらを見ても山笑う」そんな気分の帰省となりました。
 
 
 
 

        5月4日(金)晴れ
           ケチかな:サクランボに網をかけるイメージ 1とは
庭のサクランボが実をつけ始めました。
6年前に量販店で購入(980円)したサクランボの苗木が2mほどになりました。
実をつけ始めるようになって今年は3年目です。
市販のサクランボよりも一回り小さいが味は同じです。
美味しいので鳥たちも食べに来きます。
毎年、半分は鳥に食べられてしまいます。
鳥が食べ始めてからあわてて網を張るのが、この2年でした。
今年は鳥たちに食べらる前に網で覆いました。
鳥たちにも分けてあげればいいのでしょうが、アッという間に食べてしまいます。
そこで、今年はサクランボの熟す前、鳥たちが来る前に網をかけました。
この網掛けが結構難しいのです。
枝やサクランボの実に網の目が引っかかって大変です。イメージ 2
サクランボに引っかかると実が落ちてしまいます。
枝に引っかかって強引に引っ張ると網が切れてしまいます。
四苦八苦しながら一時間。
何とか網をかぶせました。
網を掛けるなんてケチかな。
徒然草 第11段「神無月のころ」を思い出しました。
神無月の頃、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入る事侍りしに、遥(はる)かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵(いほり)あり。木の葉に埋(うづ)もるる懸樋(かけひ)の雫(しずく)ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
 
かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に大きなる柑子(かうじ)の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
(現代語訳) 
 十月の頃、栗栖野という所を通り過ぎて、ある山里にたずね入ることがあり、はるかに続く苔むした細道を踏み分けていくと、ひっそりと人が住んでいる草庵があった。木の葉に埋もれている懸樋から落ちる水のしずくの音のほかに音を立てるものはない。閼伽棚には菊や紅葉などを折って散らし置いてあるのは、それでもやはり住む人があるからなのだろう。
 こんなさびしいところでも住むことができるのかと、しみじみ思って見ているうちに、向こうの庭に、大きなみかんの木で、枝もしなうほどたわわに実がなっているのがあり、人に盗まれないように周囲を厳重に囲ってあるのは、少し興ざめがして、この木がなければどんなによかったかと思ったことだ。
 
(注)閼伽棚・・・仏に供える水や花を置くための棚。 

↑このページのトップヘ