11月3日(日)曇り
大多喜町の文化祭に参加しました
大多喜町の文化祭に参加しました
文化の日です。
大多喜町文化祭に私達の会「夷隅民話の会」が参加しました。
600人収容の大ホールでの発表です。
Nさんの読み聞かせ、大多喜の民話「狐原」です。
西畑駅の「狐原踏切」の話です。
大多喜町文化祭に私達の会「夷隅民話の会」が参加しました。
600人収容の大ホールでの発表です。
Nさんの読み聞かせ、大多喜の民話「狐原」です。
西畑駅の「狐原踏切」の話です。

狐 原(きつねっぱら)
機関車が駅に近づくと
カンカンカン カンカンカン・・・
カンカンカン カンカンカン・・・
・・・・
警報機(けいほうき)が鳴り、ホームのすぐそばの遮断機(しゃだんき)がゆっくりゆっくりおりる。この遮断機(しゃだんき)に「狐(きつね)原」と書かれている。「きつねばら」、なんてのどかで温かくて心なごむ地名だなあ、と思う。むかしむかし、キツネがたくさんすんでいたので、こんな地名がつけられたにちがいない、と思った。
1
現在「いすみ鉄道」とよばれているがその前は「木原線(きはらせん)」とよばれていた。昭和五年四月に大原(おおはら)・大多喜間が、昭和九年八月に上総中野(かずさなかの)まで開通した。現在はジーゼル機関車(きかんしゃ)であるが、開通当時はけむりをはく蒸気機関車(じょうききかんしゃ)であった。
蒸気機関車(じょうききかんしゃ)がはじめて通ったとき、そりゃおおさわぎであった。一番最初に村長さんが乗り、つづいて地主さんなど村の役人さんが乗った。おおぜいの村人は、線路にそってこしをおろして見物に来たという。
「あの世へのみやげばなしに、汽車っていうものに乗ってみたいもんだ。乗れないなら、せめて一目見ておきたいものだ」
腰のまがったおじいさんやおばあさんの手をひいて、はるばるやってくる若者もいた。
ある春の夜のことだった。東の山からのぼった月が西畑(にしはた)村を照らしている。
大原(おおはら)発上総中野(かずさなかの)行きの最終列車が西畑(にしはた)を通りかかった。総元から西畑(にしはた)駅あたりは、けわしくて真冬でも機関士(きかんし)は汗だくになって、いっしょうけんめい石炭をくべなければらなかった。
西畑(にしはた)駅に近づいたときであった。汽車の前でユラリユラリと赤いひかりがみえた。
「だれだ、こんな夜ふけに汽車見物なんか・・・」
機関士(きかんし)は
ピイーッ、ピイーッ
と、汽笛をならした。しかし、赤いひかりは動くでもなく消えるでもない。
ピイーッ、ピイーッ・・・
機関士(きかんし)は必死に警笛(けいてき)をならしつづけた。それでも光は動かない。あわててブレーキをかけた。
キキキキーッ・・・・
金属音を残して汽車が止まった。
「いったいだれだ。こんな夜に汽車見物とは」
どなりながら線路にとびおりた。
あら、ふしぎ。光はスッと消えてた。さきほどあかりのあったとこには、二本の黒い線路がつづいているだけだ。線路のそばをみても、おぼろ月にてらされた田んぼがつづいているだけだった。
「ふしぎなこともあるもんだ。あれはいったい何だったんだ」
機関士(きかんし)はひとりごとをいいながら、また汽車を走らせた。
西畑(にしはた)駅の近くにくると、このふしぎなあかりが出ることが機関士(きかんし)のあいだで話題になった。
「おまえもか見たか?」
「おまえもか?」
「いったい、あのあかりの正体はなんだろう?」
と、みなこわがった。
2
それから八日後のことだった。いつものように大原(おおはら)発上総中野(かずさなかの)駅行きの汽車が西畑(にしはた)駅にさしかかったときだ。あかりが三つ四つ線路のまえに見える。機関士(きかんし)は、うわさのおばけと思いこみ、さけんだ。
「おお、おばけだ」
機関士(きかんし)はワナワナふるえ、警笛(けいてき)をならすこともブレーキをかけることもわすれて
「うわー、おばけ、おばけ・・・」
とさけびながら目をつむって顔をふせていた。汽車は
シュッ シュッ ポッポ
シュッ シュッ ポッポー
・・・・
と西畑(にしはた)駅に停車することもわすれてすすんだ。
そのとき、
ボーンという音がした。でも、機関士(きかんし)はワナワナふるえながら、やっと汽車を走らせた。
シュッ シュッ ポッポ
シュッ シュッ ポッポー
・・・・
上総中野(かずさなかの)駅にきた。機関士(きかんし)はあわててブレーキをかた。やっと止まった。
「でたでた。おばけがでた」
さけびながら駅舎(えきしゃ)にかけこんだ。
よくじつ、西畑(にしはた)駅に行ってみると汽車にひかれたキツネが線路に横たわっていた。
このようにこのあたりは、むかしキツネがたくさんすんでいたので「狐(きつね)原」とよばれていた。
おしまい
他に「人魂」の話一話でした。
Nさんありがとうございました。