じいさん晴耕雨読

じいさんの戯言を記録しています。

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2月1日(日)快晴
寺の行事、「平成27年特別祈祷」でした

9時30分から「おたきあげ」。
ご上人様の読経の後に、古いお札、お守りを燃やします。
お正月のしめ縄など正月の飾りを持参する人もいます。
燃やすことが厳しくなったせいか、風が強くて紙や藁は飛ぶせいか木のお札とお守りだけ燃やしました。
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10時30分から「水行」
毎年この水行が行事のメインです。
威勢のいい日蓮太鼓に合わせて、声を出しながらみご上人4人が水を浴びます。
正に修行です。
気温は4度くらいでしょうか。
見物人はダウンコートを着こんで震えています。
行事終了後に荒行に行った若いご上人と話す機会がありました。。
「頭から水、寒くないんですか」
「寒くはないですよ。水は頭ではなく背中に当たるようにかけるんですよ」
「何歳で行かれたの。つらいでしょう」
「初めは23歳で2回目は28歳でした。荒行僧の1日は早朝2時に起床し朝3時の1番の水行から1日7回、水行と読経の繰り返しです。朝夕2回、梅干1個の白粥の食事の生活。夜11時に一日最後の水行で、寝るのは12時過ぎですよ」
「睡眠時間2時間?・・・カゼひく人も」
カゼひく人はもちろん、修行途中で病気になってしまう人・・・時には亡くなる方も出るそうです。
若い上人様の顔が凛々しく見えて来ました。
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11時から「特別祈祷」
本堂に入って、長い長いお経(約1時間)の後に新しい御札、お守りが配布されます。
このお経が、また元気良い。
目を瞑って聴いていると、まるでお祭です。
カスタネットのような物、木魚、鐘で奏でる音楽です。
どこかで聴いた調子です。
・・・・「阿波踊り」のかけ声にそっくりです。
その後、酒やお菓子やキーホルダーの当たる抽選会もありました。
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12月13日(土)晴れ
「たたり恐れ?」「神さまが見ているよ」「良心」
「たたり恐れ?『首塚』残る」、
昨日(12日)の朝日新聞に載っていました。
ヒャー、良いですねえ。
科学万能、経済最優先の現代に、こんな粋なはからいをするなんて。
不動産会社のイメージといえば、お金のためなら何でもござれ、でした。
なのに、「神聖な大切な場所と認識している」とのコメントです。
科学の力で全てのことが解き明かされる時代に、「たたりがあると恐れ敬う心」に感動。
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子どものころ「神さまが見ているよ」という言葉に恐れを感じたものです。
昔、大人はなにかにつけ「神さまが見ているよ」と言っていました。
そこには「人はだませても神さまはだますことができないよ。神さまは何もかもお見通しだよ」という意味が込められいたように思います。
「人の道にはずれたことをすると罰があたる」という教えでした。
嘘をつく、人をだます、盗む、弱い者いじめ、親不孝、動物を傷つける、物を粗末にする・・・など人の道にはずれた行為がいくつかありました。
このように神さまを引き合いに出して、人の道を教えられたものでした。
そして小学校高学年ころに「そんなことをして良心に恥じないのか」と、良心という言葉を学びました。
今思うに「神さまが見ているよ」と「良心」は同じ教えでした。
そして今回の「たたり恐れ?」も、「神さまが見ているよ」「良心」につながる言葉のような気がします。
「妖怪」大好き人間には、感動的な記事でした。

         2月20日(木)曇り
       「ま、いいか  それがどうした 人それぞれ」(弘兼憲史)
習慣化したと思っていたのに、朝のラジオ体操、またサボってしまいました。
午前6時、目は覚めているのに布団からぬけ脱せません。
オリンピックニュースを見るとも聞くともなく何度も何度も見ています。
6時30分、やっと布団から抜け出しました。
「ラジオ体操、今日もサボってしまたか」、何となく後ろめたさが残ります。
そして一方、「ま、いいか。誰に迷惑かけるでもなし・・・」と言い訳しています。
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「ま、いいか」?あれ、最近どこかで最近読んだような?
そうそう、昨日(19日)の朝日新聞の記事でした。
漫画「島耕作」の著者弘兼憲史さんのシニアライフを生きるというエッセイです。
同じ団塊世代です。
「・・・学校でも社会に出ても人間関係にもまれ、常に競争にさらされてきた世代です。ですが、シニアライフを楽しむためには、他人と競わない、比較しないことが大前提です・・・」と記しています。
会社員に比べたら他人との競争はそれほどありませんでしたが、まあ、ひしめく団塊世代最後の年代です。
「ま、いいか それがどうした 人それぞれ」。
何だか安堵します。
さらに私の3カ条
1,問題に直面したらそのまま受け入れる
2,心を立て直し、「居直り」を大切に
3,自分の身の丈に合った人生を送る
そうですね、たかが、朝のラジオ体操。
「ま、いいか、それがどうした、人それぞれ」と居直ったものの、わだかまっています。
小人ですねえ、だめですねえ。
 
     *新聞記事はまだ続きます。スキャナが小さいためここまでの大きさしか載せることができません。

       11月14日(木)晴れ
       「お会式」初体験
寒いー、さむいー・・・と言っても、外の温度は6度です。
先日行った法師温泉、長寿館の昨日のブログには次のようにつづられていました。
気温:-1℃
昨日より冷え込んだ朝となりました。
紅葉時期なのに雪景色となり県道法師線は
積雪15㎝ほどあります。
朝の渚には、夜明け前から釣り人が並んでいます。
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「何が釣れるんですか」
「ヒラメだよ」
「えっ、高級な魚、ヒラメですか」
「うん、イワシがあんまりいないからだめだ。・・・イワシの群を追っかけてヒラメがやってくるんだ・・・」
「エサは」
「これ、疑似餌だよ」
竿を上げてビニールの疑似餌を見せてくださった。
東の空がオレンジ色になってきます。
「写真撮ってもいいですか」
「ああ、いいよ」
朝日をバックにした、釣り人。
絵になりますねー。
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でも逆光です。
カメラの画面が真っ暗です。
まあー、釣り人のシルエットもいいか。
バチバチ撮ります。
わあー、朝日が昇ってきました。

わが家の宗派は日蓮宗です。
今日、お会式という行事がありました。
今年から寺の世話役で、わけもわからず行きました。
お会式という言葉は何度も耳にしていましたが、由来は知りませんでした。
ネットで調べました。
日蓮聖人がお亡くなりになられた日(旧暦10月13日)に営む法要です。「報恩講」「恩命講」「御命講」ともいいます。
 松尾芭蕉の句に「御命講や 油のような 酒五升」とあり、元禄の頃には江戸を代表するような盛大な行事になっていたことが伺い知れます。
もともとの「お会式」の意味は「法会の儀式」の略語であり、日蓮宗に限ったものではありませんが、現在の日蓮聖人の忌日に行う報恩会の事を指すことになっています。
お経をあげた後、他の寺の上人様の講話が1時間ありました。
「絆」「婚外子」の講話でした。
曾野綾子さんの婚外子観を例にとりあげていました。
立場が変わると見方(価値観)が変わるものですね。

     8月19日(月)晴れ
     施餓鬼でした
今日は寺の施餓鬼でした。
施餓鬼の教えについてとても興味がったので、楽しみでした。
まず、目についたのが「除熱得清涼」と書かれた垂れ幕でした。
今日のこの場にピッタリの言葉です。
イメージ 1施餓鬼、よく分かりません。
今日を機会に施餓鬼の由来を覚えるために、ネットのブログから引用します。
 私たちが亡くなりますと、仏教では因果応報(インガオウホウ)と言われるように、生前行った功徳の結果において、次の世の六道世界に振り分けられると言います。
 六道世界とは、
1.地獄(ジゴク) 
2.餓鬼(ガキ) 
3.畜生(チクショウ) 
4.修羅(シュラ) 
5.人間(ニンゲン) 
6.天  (テン)    の6つの世界のことです。
その中で餓鬼の世界とは、生前、欲張りで嫉妬深い人が陥る世界で、餓鬼の世界には様々な欲求不満の人間がおり、決して満たされることの無いおのれの欲望の炎によって、自身の身を焼く地獄の世界のことです。
イメージ 2 お盆のはじまり
 お盆は、盂蘭盆(ウラボン)、正式にはウラバーナと言い、逆さずりにされた、最も苦しい状態のことを言います。
 お釈迦様の弟子に目連尊者(モクレン ソンジャ)という人がいました。
 目連尊者はお釈迦さまの弟子の中で神通第一といわれるほど、大変神通力のすぐれた方でした。
ある日、目連尊者は亡くなった母親がどうしているかと、神通力を使ってみると、どうしたことでしょう、母親は餓鬼道の世界に落ち、体は痩せこけ、お腹だけ膨らませて、口に入れようとする食べ物すべてが燃え上がり、もがき苦しんでいるではありませんか。
 目連尊者の母親は、生前、他人の不幸を省みず、人をだまし、おのれの欲求のみに生きました。
その結果が餓鬼道だったのです。
 驚いた目連尊者は、お釈迦様に相談しました。
お釈迦様は「雨季ももうすぐ明けるので、(旧暦の七月十五日。現在では、七月十五日と八月十五日の二通りある。この時期、インドでは雨季の明ける時期で、雨季の間、修行に篭っていた お坊さんが修行からでてくる[安居(アンゴ)]。)修行から出て来たお坊さんたちを供養することによって、母親は餓鬼道の苦しみから救われるだろう。」と言われました。
 早速、目連尊者は何百人というお坊さんを供養しました。
そして、神通力で母親の様子を見てみると、母親は餓鬼道より救われ、ニコニコと微笑んでおられました。
 これがお盆のはじまりです。
 私達の先祖もまた、もしかすると餓鬼道に落ちて苦しんでいるかもしれません。私達は凡人ですから、つい欲深い行いを知らず知らずの間のうちに行って、その結果によって餓鬼道の世界に落ちて苦しむかもしれません。そうした多くの人々を救うためには、今生きている私達が、餓鬼道の世界で苦しんでいる人々の為に、代わって善行を積んで、仏様の慈愛でもって、餓鬼道の世界で苦しむ人々を極楽世界へと導いてもらうということを、施餓鬼と言います。
 施餓鬼は字の如く、餓鬼に施すということですから、まず水や食べ物を供え、読経回向することは当然ですが、施餓鬼の最も大切なことは、普段から我々人間も含めたこの世に生きる全てのものに食べ物を分け与えるという心掛け、地にはう蟻等から微生物にまで気を配る優しさが必要ではないでしょうか。
 そうした普段からの、食べ物を大切にし、また他に施し、共に分け与えていくという日常の心掛けが、施餓鬼供養の本当の意味だと思われます。
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月のきれいな夜です。
暦を見たら十三夜です。 

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