じいさん晴耕雨読

じいさんの戯言を記録しています。

タグ:歴史

        10月29日(火)雨
        『明治を生きた会津人 山川健次郎の生涯 白虎隊士から帝大総長へ』
NHK大河ドラマ「八重のさくら」に熱中しています。
ドラマの中に「山川健次郎」なる人物が出てきます。
後に東京大学総長になるという事だけは知っていました。
この人物についてもっと知りたくて『明治を生きた会津人 山川健次郎の生涯 白虎隊士から帝大総長へ』を読みました。
イメージ 1

ヒャー、すごい人です。
さすが、わが故郷、会津の人です。
こんなに誇らしく思えた会津人ははじめてです。
野口英世さんは研究者としてすごい人と思えるけど、人間的に?
それに比べ、山川健次郎さんは、高潔という言葉がピッタリです。
wikipedia より人物像を抜粋します。
 
人物情報
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日) - 昭和6年(1931年)6月26日)は日本の教育者。東京帝国大学で物理学を教える。東京帝国大学、京都帝国大学の総長、九州帝国大学の初代総長、私立明治専門学校(現在の九州工業大学)の初代総裁、旧制武蔵高等学校(現在の武蔵大学)の校長などを務める。
略 伝
嘉永7年(1854年) - 会津藩士・山川重固の三男として生まれた。
万延元年(1860年) - 父の重固が没し、兄・大蔵(後の山川浩)が家督を継ぐ。
明治元年(1868年) - 会津戦争。若松城開城後、猪苗代に謹慎の後、越後に脱走、
              長州藩士・奥平謙輔の書生となる
明治4年(1871年) - 斗南藩再興のあと、アメリカへの国費留学生に選抜され渡米。
明治8年(1875年) - イェール大学で物理学の学位を取得し帰国。
明治9年(1876年) - 東京開成学校(翌年、東京大学に改編)教授補になり、アメリカ人ピーター・ベーダー(ピーテェ              ル・ベダル)の助手を務める。
明治12年(1879年) - 日本人として初の物理学教授になる。
明治21年(1888年) - 東京大学初の理学博士号を授与された。
明治34年(1901年) - 48歳で東京帝国大学総長となる。東京学士会院会員に任命される。
明治37年(1904年)8月22日 - 貴族院勅選議員(~大正2年(1913年))。
明治38年(1905年) - 日露戦争後に、政府を非難した教授が処分を受ける事件(戸水事件)が起こり東大総長を辞               任。
明治40年(1907年) - 安川財閥(安川敬一郎・松本健次郎親子)の資金拠出による明治専門学校(現九州工業大               学)の設立に協力、初代総裁となる。
明治44年(1911年)4月1日 - 九州帝国大学の初代総長となる。
大正2年(1913年) 5月9日 - 再び東京帝国大学の総長となる。
           6月21日 - 九州帝国大学名誉教授。
大正3年(1914年)8月19日 - 澤柳事件を承け、京都帝国大学の総長を兼任する(1915年6月15日まで)。
大正4年(1915年)12月1日 - 男爵を叙爵。
大正9年(1920年) 東京帝国大学の総長を退任。
家族
父:山川重固(会津藩国家老) 兄:浩(陸軍少将、男爵)
姉:操(明治天皇フランス語通訳兼昭憲皇太后付女官、小出光照の妻)
姉:二葉(女子教育者・東京女子高等師範教諭)
妹:捨松(元老・大山巌公爵の妻)
妻:鉚(りゅう、建築家・辰野金吾の妻の妹)
長男:洵(日本農芸化学会副会長、東京帝国大学教授、男爵)
四男:建(文部省局長、山川浩家を承継。貴族院議員)
三女:照子(東京都知事・東龍太郎の妻)
孫:建重(東海区水産研究所所長、農学博士、男爵)
曾孫:箙田鶴子(えびら たづこ、作家。健次郎の長女の孫)
人 物
少年期に白虎隊に入隊していたのは有名な話だが、この時の経験を元に著した戊辰戦争を会津藩側の立場から見た『会津戊辰戦史』は死後の昭和7年(1932年)に出版された。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本であり、これ以後現代まで会津藩側の立場に立った歴史書や歴史小説では、旧幕府軍を「東軍」新政府軍を「西軍」と書くことが多い。秩父宮妃勢津子の婚約のために奔走したのも健次郎であった。
会津藩に対する忠誠心は壮年期以降は「愛国心」に転じ、日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛け、人事担当者を困惑させたという。国本社では副会長をつとめ、講演活動にも熱心であった。
物理学に精通したという立場からか極めて現実主義者であり、妹の山川捨松等留学生の多くが洗礼を受けた中最後までキリスト教に対しては懐疑的であったと言われる。大正時代の千里眼事件で一番早くに疑念を唱えたのも山川健次郎であった。
「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていることが多い。実際にカレーライスを食した日本人一号が誰だったかはともかく、明治4年(1871年)に国費留学生としてアメリカに向かう船中でカレーライスを食べたという記述を回想録に書き残している。しかし、カレーライスを選んだのはそれが唯一米を使った料理であったからで、カレーはすべて残したという。
・長州藩「奥平謙輔」という人物が健次郎を書生に雇ったことには感激しました。
 会津と長州は数年前に戦ったのでしょう、それを・・・何という心の広いことでしょう。
・兄弟、家族、やはり鷹の家族は鷹ですね、すごい面々です。
・大河ドラマがますます楽しみです。
健次郎の妹、「捨松」(大山巌夫人)も登場してきました。
 
著者星亮一は著書をこんなふうに結んでいます。
「健次郎は現代の日本人に、何を問いかけているのだろうか。日本という国のあり方ではないだろうか。書き終えて思うことは、その一点である」。
 
 

         5月30日(木)雨
        夷隅が生んだ名馬「磨墨(するすみ)」
今日も一日中雨でした。
先日(5月19日)の「民話さんぽ」を機関紙「夷隅むかしむかし」に載せるため、朝からパソコンに向いました。
いすみ市布施の「筆かけの槙」は実におもしろいです。
夷隅地方にたくさん語り伝えられている、源頼朝伝説の一つです。イメージ 1
こんな話です。
      筆かけの槙
 上総の国は御宿町布施に館を構えていた上総介広常(かずさのすけひろつね)が治めていました。その勢力は房総一といわれていました。上総介広常の館を尋ねた頼朝は、平家打倒のために救援を願いました。しかし、広常は隣国(下総の国)千葉常胤(ちばつねたね)と相談してからという返事をして、即答しませんでした。
 話が終わると、広常は頼朝を近くの長福寺に案内しました。住職は源氏の頭領と知り、
「頼朝様、この寺にはまだ山号がありません。山号をつけていただけませんでしょうか」
「わしでよければ、ひとつ山号をつけさせていただくか」
住職は紙と筆と硯を持って来ました。この紙と筆と硯を見、
「これはこれは何とすばらしい硯だこと。このような見事な硯は初めて拝見いたしました」
感嘆の声をあげられました。そうして
「この寺は日本一立派な硯を持っているので『硯山』という山号にしよう」
墨をすりながら言われました。
墨をすり終え、筆を手にしたときでした。イメージ 2
ヒヒーン
鋭い馬の悲鳴がしました。(さては、追っ手の者が・・・)と思い、手にした筆をそばの槙の木にかけ、太刀を握りました。見ると真っ黒な裸馬が勢いよくむかってくるではありませんか。しかし馬は、頼朝の所に来ると止まり、大きな目をまばたきさせ、かわいらしく首をふるのです。毛の色つや、脚の筋肉、一目で名馬であることがわかりました。頼朝は一目でこの馬が気に入り、愛馬になさいました。
 境内の槙の木は、この時、頼朝が筆をかけたので『筆かけの槙』と呼ばれるようになりました。今でも長福寺の境内に残っています。樹齢は一三五〇年といわれ、根まわり五メートル、高さ一〇メートルもの大木です。また、この馬は墨をすっている時にあらわれたので『磨墨(するすみ)』と命名されました。頼朝はこの名馬を後に重臣、梶原景季(かじわらかげすえ)に贈りました。梶原景季はこの『磨墨(するすみ)』に乗って、あの「宇治川の戦い」で『生月(いけづき)』に乗った佐々木高綱(ささきたかつな)と「戦陣争い」をします。
イメージ 3
 
宇治川の戦いでの「戦陣争い」、我が郷土「磨墨(するすみ)」は勝ったの負けたの?
夷隅の人間としては大いに気になるところです。
結論を言えば、惜しくも負けました。
そんな「宇治川戦陣争い」を調べてみました。
 
       名馬「磨墨(するすみ)」と「宇治川の戦陣争い」
 戦いの始まりは、両軍がにらみ合いながら向かい合い、互いに敵陣めがけて矢を射ち合います。その中を、味方の先頭を切って敵陣に駆け込む事を「先陣を切る」といいます。味方の軍勢は、これをきっかけに一斉に敵の陣地へなだれ込みます。先陣を切る事は、戦いの勝敗を決する大きな要素となります。敵陣が放つ矢が飛んでくる中を駆け入るわけですから、まさに命懸けです。そのため戦いに勝てば、先陣を切った者は一番の功労者として恩賞と名誉を手にすることができます。
 寿永三年(一一八四)正月、雪解けで増水した宇治川をはさんで、源義経軍と木曽義仲軍が向かい合いました。大将義経は濁流を見て「ここを渡るのは無理のようだ。下流へ迂回するか、水の勢いがおさまるのを待つか」と思案しました。
 その時、梶原源太景季、十メートルほど離れて佐々木四郎高綱が馬に乗ってやって来て、われこそが戦陣をつとめると川に向かいました。
「梶原殿、この河は、西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んで見えたり。締め給えや」、佐々木が言いました。梶原は「さもあらん、川中で落馬しては一大事」と、馬を止め、腹帯を解いて締め直しました。佐々木はその間に、どんどん川へ進んでいきます。「謀られたか」と思いながらも梶原は遅れてはならないと佐々木の後に続きます。 イメージ 4
 今度は梶原言います。
「佐々木殿、功を焦って不覚を取りなさるな。水の底に大縄が有りますぞ。心得たまえや」
「そうだ、足を取られては大変」と、太刀を抜いて、馬の足に掛かる縄を、ブツリ、ブツリと斬りながら渡って行きます。
さすがは生食(いけづき)、日本一の名馬です。濁流の宇治川を突っ切って、とうとう対岸へ上がりました。
一方の梶原の乗った磨墨は、激しい流れに押し流されて、はるか川下に上がりました。
その後、佐々木は、鐙(あぶみ)に踏ん張り立って、
「宇多天皇に9代の後胤(こういん・子孫のこと)、近江の住人・佐々木四郎高綱、宇治川の先陣なり」と、声高らかに、名乗りを挙げました。
 
物語では、佐々木高綱と梶原景季が宇治川の先陣を競った訳ですが、その評価は佐々木を褒め称える人と、小細工をした佐々木を非難する人とに二分されたそうです。
 
雨の一日、あれこれ本をめくって、こんなことを書いているとアッという間に一日が終わってしまいます。
運動不足です。でも、食欲はあります。体重が気になります。
 
 

     12月27日(木)晴れ
     源頼朝と上総介広常(かずさのすけひろつね):瀧泉寺の銀杏樹
国道128号線、いすみ市大原貝須賀に「瀧泉寺」という天台宗の寺があります。イメージ 1
ここに上総介広常が植えたという銀杏の大木が聳えています。
銀杏の下には「銀杏樹由来」という碑が建ち、次のように記されています。
     銀杏樹由来
當寺ハ嘉祥年間布施名熊ニ開基
天台宗ニ属ス
平広常子其地ニ築城ノミギリ
鬼門除トシテ当地ニ移シ建立
貝須賀山普門院瀧泉寺ト命名シ
広常自カラ門前ニ銀杏樹ヲ
植樹シタト傳エラル
現今亭々トシテ天ニ聳エル
老木即チ是ナリ
 
瀧泉寺は嘉祥年間(848~851年)に、名熊地区に建立。広常が名熊の殿台に城を築城した際に、鬼門除けとして現在地に移しました。その際、広常自身が植えた銀杏の木といわれています。
広常は頼朝の平家打倒に貢献しています。
しかし、広常の横柄な態度が頼朝の信頼を損ね、後に暗殺されます。
NHK大河ドラマ「平清盛」にも登場しました。
その横柄ぶりを「平清盛4 219ページ」(藤本有紀:作 NHK出版)に表現されています。イメージ 2
 
・・馬に乗った武士が家人を従えて来る。
「われこそは上総介広常。わが兵二千騎を率いて参上つかまつった。はよう顔を見せよと王に言うて参れ」
広常は高飛車な態度で、下馬しようともしない。
定綱と経高は腹を立てたが、二千騎の味方を得られるとは願ってもない話だ。ふたりが取り次ぎに走り去ると、広常の家人が心配そうに尋ねた。
「だ、大事ないのでござりますか・・・・さような・・・」
「かまわぬ、かまわぬ。源氏の御曹司というだけで、所詮は都育ちの生白いお方であろう。場合によってはその首とって、一族郎党みなこの広常の家来にしてやろうぞ」
広常が大口を叩いた。
ちょうどそのこと、頼朝が藤九郎と定綱・経高を従えて現れた。
「・・・そなたが上総広常か」
「いかにも」
「去(い)ね。遅参したうえに下馬もせぬような者は信じるに値せぬ。もののふの道をわきまえぬ愚か者の二千騎などなんの役に立つ。はよう去ね!」
さっと背を向けた頼朝に、広常は慌てて馬から下りると地面に手をつき、頭を下げた。
「おみそれいたしました。あなた様こそ御大将の器。この広常、平家を討ち滅ぼすお手伝いをいたしとうござりまする」
 
広常の兵二千騎は頼朝の平家打倒にたいへん貢献します。
しかし、広常の横柄な態度はなおらず、頼朝の信頼を損ね、後に暗殺されます。
悲運な武将です。
いすみ市大原布施に城を構えていた広常が暗殺されなかったならば、ここ夷隅地方はどんなにか発展しただろうか?なんて、考えてしまいます。
人間横柄な態度はいけませんね。
 
 
 

               8月5日(日)晴れ
   本「童謡『月の沙漠』と御宿町」ができましたイメージ 1
待ちに待った、本ができあがりました。
「童謡『月の沙漠』と御宿町」(本の泉社発行)という本です。
25年前に「外房・文学のふるさと」(崙書房)という、外房を訪れた作家達を書きました。
その際、御宿町を訪れた加藤まさをと「月の沙漠」を書きました。
今回、昨年定年退職を機会に、再度調べ、書きなおしました。
前回知らなかったことが多くあり、楽しい調査・執筆(パソコン打ち)になりました。
「月の沙漠記念像」建立が、「観光のためでなく青少年の情操教育のためにと」、内山保が加藤まさを説得したことには心動かされました。
今日、詩碑や歌碑、記念像、記念館などの建設は町興し、観光用と相場が決まっています。
観光用ならまっぴらゴメンと断る加藤まさを。
観光用ではなく子どもたちの情操教育のためと内山保は加藤まさを説得するのです。
内山保の熱意に動かされる加藤まさを。
いざ出来上がった「王子さまとお姫さま」像。イメージ 2
しかし、傷つけられる像。
情操教育のためにと制作した像が、傷つけられるのです。
何とも皮肉な結果です。
・・・そのほか、作詞者佐々木すぐる、歌手柳井はるみにも少しふれました。
写真も多く入れました。
加藤まさを、内山保の秘蔵写真。
昭和初期の御宿町の写真、あの有名な「岩瀬禎之 海女の群像」の写真など豊富に入れました。
退職後、私にとっては大きな仕事でした。
やっと一段落つきました。
 
内容構成(もくじ)は下記の通りです。
第1章 童謡「月の沙漠」と御宿町 イメージ 3
 外房御宿町 8
 御宿町は童謡「月の沙漠」の舞台
 加藤まさをと内山保の出会い
 出生地、藤枝市からの質問状
 本多勝一『アラビア遊牧民』と「月の沙漠」
 大正時代の御宿町
第2章 加藤まさをが見た御宿風景
 御宿での療養生活
 目覚める恋心
 『逃げた猿』のモデルは内山少年
 悲しみと愁いの作品
第3章 加藤まさをの生い立ち
 病弱な少年
 高輪中学に進学 イメージ 4
 立教大学英文科進学
 立教大学英文科卒業
 薔薇を愛した青年
 スポーツマン加藤まさを
 絵本作家
 年譜
第4章 童謡「月の沙漠」誕生
 「月の沙漠」を少女倶楽部に発表
 作曲 佐々木すぐる
 歌 柳井はるみ
第5章 「月の沙漠」記念像 建設
 汚染された童心を洗い清めたい イメージ 5
 レジャーブームにわく日本
 キャンプ全面禁止
 観光と青少年育成 
 歓迎会
 みんなで歌おう「月の沙漠」
 集まる寄付金
 ミス「月の沙漠」 
 「月の沙漠記念像」除幕式
 全国に大反響
 観光客一〇〇万人突破
 受難つづきのラクダ像
 よごれていては人の心は洗えぬ
第6章 東京から御宿町へ
 第二の故郷御宿町に
 御宿町に移住 イメージ 6
 天国へ
 お別れの言葉
 加藤まさを夫人
 青年詩人と内山少年の友情
第7章 歌い継がれる 童謡「月の沙漠」
 月の沙漠記念館
 加藤まさを生誕百周年記念事業
 童謡「月の沙漠」に魅せられた音楽家「真木順子」
 月の沙漠音楽祭
 日本人の心に残る歌ベスト五位
あとがき
 
 
 
 
イメージ 7
 

 

    7月25日(水)晴れ
      中学生にメキシコ塔の話をするイメージ 1
御宿の海を見おろす高台に建つ「メキシコ塔(日西墨三国交通発祥之記念碑)」について中学生に話をする日。
中学生に興味を持ってもらうにはどうするか、難しい。
こちらは興味を持っていても、中学生にはつまらない、こんな事が多くある。
「温度差が異なる」ということだ。
相手を同じ土俵に引き込む方法?
その一つ「質問法」が有効。
今日の試み。
・・・・
「1609年(慶長14)は、何時代?」
「江戸時代です」
「江戸の前期、中期、後期のいつ?」
前期です。
「なぜ?」
「江戸幕府が開かれたのは1603年だから」
「よく知っているねー。スゴイ」
周りの中学生から「ウオー」との歓声。
こうなると、話に耳を傾けてくれる。
今日のプリント
           日・西・墨三国交通発祥記念之碑
                
1 日・西・墨三国交通発祥とは?                                                        
 ・昭和3年(1928)建立        日・日 本・ ニッポン                            
                                       西・西班牙・スペイン                             
                                       墨・墨西哥・メキシコ                            
2 あらまし 
 1609(慶長14)年のこと。当時スペイン領だったフィリピンからメキシコに向かった帆船が台風のため に日本沿岸まで押し流され,房総半島の岩和田村(現・御宿町)海岸で座礁した。
  乗組員 376人のうち317人は 地元の住民に救助された。大多喜城主・本多忠朝から温かくもてなされた。さらに 将軍秀忠や家康に面会した。翌年 ウイリアム・アダムス(三浦按針)が建造した 帆船を与えられて
1610年無事に帰国した。
 翌1611年に, メキシコからビスカイーノが日本に派遣され,徳川家康や伊達政宗等と会見し,更にこれがきっかけとなって支倉常長等による遣欧使節団(1613)のスペイン・ローマ訪問につながった。
  1928(昭和3)年夷隅郡出身の新聞記者藤平権一郎の勧めで「日・西・墨交通発祥記念之碑」が建立された。
3 ガレオン船:サン・フランシスコ号
  全長45メートル、幅11メートル、約650トン 
  乗員376名
    ・水夫160名、商人70名、宣教師5名、
     砲手35名、小銃手60名
    ・食糧、宝石(ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、
     メノウ)、ジャコウ、象牙、生糸、香料  
4 8月10日台風に遭遇:(1609年7月25日出発):5回の台風に遭遇。 3隻がばらばらになる。
 (サン・フランシスコ号・御宿、サン・アントニオ号・大分県臼杵、サンタ・アナ号・メキシコに到着)
5 緊急避難地を議論
  ・1596年スペイン船サン・フェリペ号が高知県沖で座礁。荷を奪われ宣教師26人が処刑させる。
    ・フィリピン総監督であったドン・ロドリゴが2年前に日本人町で暴動を起こした200人の日本人を強制送還する。
      江戸湾寄港を決意。
6 田尻浜沖で座礁
   9月30日夜10時サン・フランシスコ号が御宿田尻浜沖で船が座礁。
7 日本滞在の様子を『日本見聞録』(ドン・ロドリゴ著)に記録 
  ・衣類、食物を惜しみなく提供
 彼らはおおいにあわれみ、女性達は非常に同情深いために涙を流した。
  進んで夫に向かい、「キモーネ(着物)という綿を入れた衣服を我々にあたえてください」と頼んだので、夫らは多くの着物をあたえ、また食物を惜しみなく提供してくれた。
   (生存者317名、死者16名、行方不明者43名)                   
・殿様がキスのあいさつ
 それから3,4日後に領主の殿は、300人あまりのお供を率いてたずねてまいりました。お供の多くは槍、火縄銃、長刀などを手にしていた。彼は私を見ると立ち止まって、スペインと同じような形で手と頭を使って敬礼をしました。殿は私の手を取ってキスをしたのです。
・牛、鶏、刀などの贈り物
 贈り物は、緞子に金糸と絹の刺繍をしたとても精巧で華麗な着物4枚と、カタナという剣一振り、牝牛1頭、鶏数羽、土地の果物、米で醸造した酒等でした。私はブドウで醸造したワインの次には、この酒に及ぶ物はないと思います。これらの贈り物は、とても多く、大いに助かりました。また、大御所よりの指示が来るまでは、私たちに食料のすべてを支給すると言ってくれ、この村に37日間、実行してくれたのです。
・大多喜城は金銀の部屋
 部屋は金銀でいろいろな細工が施され、彩色も美しく、天井ばかりでな
 く、床から上方にいたるまでどこも素晴らしく見るべき価値があります。
・清潔な江戸の街                                                       
 町の通りは広く、まっすぐに延びている。これはスペインの市街よりも発達しているといってもよい。家は木造で二階建てのものもある。外観はスペインの石造りのほうが優美だが、内部の美しさは江戸の家屋のほうがはるかに勝っている。街路も美しく清掃され、清潔である。
駿河(静岡県)→豊後(大分県)→浦賀(1610年8月1日)→メキシコ、アカプルコ着(11月23日)
8 その後の日本・御宿とスペイン(メキシコ)イメージ 2
1611年(慶長16)6月スペイン政府が返礼
1612年(慶長17)キリシタン禁止令布告
1613年(慶長18)慶長遣欧使節団(支倉常長)
1624年(寛永 1)スペイン船の来航を禁止
1635年(寛永12)海外渡航禁止令          
1639年(寛永16)鎖国が完成する
1873年(明治 6)岩倉具視欧米使節団がスペイン船御宿沖座礁の話を聞く
1888年(明治21)日墨修好通商条約を結ぶ  
1611年スペインから家康に贈られた時計 
1928年(昭和3)日西墨三国交通発祥記念碑の建立                        
1978年(昭和53)メキシコ大統領ロペス・ポルチーヨが御宿町を訪問
2009年(平成21)サン・フランシスコ号漂着400周年記念 
  ・彫刻「抱擁」(墨)、「イサベル女王勲章」(西)が贈呈 
2012年(平成24)メキシコ・アカプルコに「日墨交流の碑」建立 

 

↑このページのトップヘ